演劇の学校に通っていて将来は役者をめざしているアルバイト女性

『恋する気分』

僕は喫茶店の雇われマスターをしています。マスターと言っても、みんなと一緒に厨房でコーヒーをわかしたり、パフェを作ったり、品切れの材料を注文したり、その上、従業員の仕事ぶりにも目をこらしていなければならず、本当に毎日神経が休まりません。
とはいえ、店が暇な時は、そなえつけの雑誌に目をとおしたり、ウェイトレスたちとお喋りに夢中になったりして、結構楽しんでいるので、それで帳尻をあわているといえるでしょう。
今度新しくアルバイトで雇った女性は、演劇の学校に通っていて将来は役者をめざしているとか。役者をめざすだけあって、個性的な美人で、僕好みのタイプでした。
彼女は午後の3時から8時までが仕事でなかなかよく働いてくれます。
その彼女があるとき、ずいぶん落ち込んでいました。いつもなら客の注文を、はきはきとした声で受けるのに、このときはうなだれがちに、声の調子も低かったのです。
「どうしたんだ」
きくと、芝居が思うようにできずに、悩んでいるとか。同期生たちが次々にうまくなっているのに、自分一人取り残されていくような不安にみまわれているとも言いました。
「きみまだ若いんだから、これから、頑張ればいいじゃないか」
いくら励ましても、一度揺らいだ自信は容易なことでは立て直せないようです。
「よし、それじゃ今夜、仕事がひけたら、一緒に飲みに行こう」
「あたしも、飲みたいとおもっていたところです」
そんなわけで僕と彼女は店が終わると連れだって、近くの居酒屋に向いました。その店は明るい感じの、若い女性たちもたくさん飲んだり食べたりしていて、彼女もそんな店の雰囲気に、少しは気分も明るくなった様子です。
「お疲れさん」
僕たちは生ビールで乾杯しました。
「将来は役者になりたいそうだけど、どんな役者をめざしているんだい」
僕が聞くと、彼女は目を輝かせて、
「見る人の心を打つような芝居ができる役者です」
「それならもっと、人生経験をつまなくちゃな。それと、恋も、いっぱいやったほうがいい」
「恋」
「だって芝居って、恋愛ものばかりじゃないか」
『マスター、相手になってもらいますか」
「もう酔っぱらったのか」
「本気です」
「わかった、もっとのめ」
「わたし、お酒がのみたくなっちゃった」
「よし、それじゃ日本酒だ」
ぼくもまた、なんだか本当に、彼女と恋がしたい気分になってきました。

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